豊かな里山、渓流の水辺空間
地区面積17haの土地区画整理事業で創出された整備水準 の高い優良宅地
大沢城・・・標高442mの奥谷山頂にある。承久の乱により相模から進出した東国武士が戦に陣取った城。主郭の 南北にそれぞれ一つの郭を配し、東に門を構え、門下にさらに郭を設置。南北に掘り切り、門跡の平地から2〜3m急斜面を登ると郭が西に向かって連なり、帯曲輪が郭を取り巻いている。尾根の北と南は急斜面で敵の侵入を防ぐようになっている。明智の丹波攻めの際、敵侵入を滑落させて防ぐために急斜面に敷き詰めた竹の皮に火が放たれ、焼失落城したと伝えられる。
禄庄城・・・標高326mにある。酒井の家老杉本の塁とされている。8間四方の本丸、段、大手門、深さ1間の堀切り、出丸などで構成されていた。杉本の屋敷、家来屋敷なども構えていたといわれる。
佐幾山城・・北東からの攻撃に備えた出城とされる。
↓ 中世3山城縄張りの図
中世ロマンコース・・・中世の3山城を巡る遊歩道が「中世ロマンコース」として整備されている。山頂からの眺望は絶景。3城は尾根伝いに連なっている。昔日の湖沼干拓の歴史が一望できる。戦国の世に因州から進出した波多野の居城「八上城」が霧梅に浮かぶ。眼下に大沢自治会の区域が一望できる。少し足を伸ばし、湖沼時代の舟運の目印になったといわれる「火灯しし山」(ひとぼしやま)山頂から分岐して西に向かうと、渓流の流れに沿って林間を縫うように進むなだらかなコースもあり、途中「音羽の滝」の美しい姿に出会うことが出来る。
それでは、ロマンいっぱいの遊歩道へ誘(いざない)います。ご案内はこちらからどうぞ。
1482年、二村神社の氏子に大沢も含まれていたが、神事の日、氏子座席のことから紛争が起こり、祭器などを分け取って分裂したといわれる。大沢は神輿、獅子を持ち帰り、新たに社を起こしたと言われる。大沢村は正八幡宮を奉迎し、氏神としたといわれる。 ハトが神社のシンボルとなっています。
源平の乱の戦死者の首を埋めたとされる。現在では阿弥陀堂に祀られている。平資盛の先隊が源義経軍を防ぐための戦闘による戦死者の供養塔といわれる。
応神天皇の若王子大神を祀るといわれる。中腹の大岩に行者神を祀っている。9月に八朔祭りが行われる。
明治初年の神仏分離令により天台宗のご本尊薬師如来を堂を建立してここに移されたといわれる。郡内88箇所霊場の17番札所。4月に大師講、阿弥陀講が行われる。
太閤検地と徳川の承応年間検地の中間に当たるもの。当時の耕作状況、土地所有状況を知る上で重要。杉本家に現存。当時の大沢村の範囲は現在の大沢自治会の範囲より広範であるが、石高大沢1003との記述あり。
進取の気性に富んだオンリーワンの人物多数あり、活力に満ちている。
集会施設の「おおさわふれあいセンター」、都市公園の1号公園、2号公園を有している。施設規模は次の通り。
鉄筋コンクリート2階建。80人収容のホール(舞台、ピアノ、音響設備)、50人収容の和室、10人収容の会議室、
調理台2脚の厨房を供えている。利用に当たっての問い合わせ、予約などはこちらから。
1号、2号公園あり、1号公園はゲートボール競技可能。
は る 阿弥陀堂の大師講、阿弥陀講, 桃の節句、うずき、節句、さなぶり、子ども会
な つ 盆、八朔祭り、自治会夏祭り、鎮守の森の音楽会、虫送り行事
あ き 八幡神社秋祭り、子供達の自然学習会、栗拾い大会、彼岸、若宮講、亥の子
ふ ゆ 年の瀬、新年、とんど、家祈祷、八幡神社厄除大祭